中の畑雷神社と風神雷神像について
現代風神雷神考
中の畑雷神社は大江町中の畑地区に位置する。その本殿に江戸時代後期に制作されたと考えられる木造風神雷神像が安置されていた。中の畑地区は無居住化集落(いわゆる廃村)となっており、神社および風神雷神像は地域に取り残され、ここ10年ほどは元住民の数人が管理しているものの、十分とはいえない状況になっている。2018年に「現代山形考」展のために神社の調査をしたところ、風神雷神像は自立できないなど保存状態が極めて悪く、また安置されている本殿も倒壊する可能性がある状態であった。そのため、管理者と協議し、まず像を搬出し、自立できるための最低限の修復処置をして同展で展示した。展覧会後は、像を神社に戻しても管理が極めて困難であることから、管理者および大江町との協議の結果、町に寄贈されて現在は町歴史民俗資料館に収蔵・展示されている。
雷神社の創立は永享年中(1429~1441)とされ、天正12年(1584)には寒河江高基(?-1584)の祈願があり、社領が寄進されたという。現在の本殿は天保年間(1830~1844)に建て替えられたものといわれる。神社には宝暦5年(1755)から明治期に奉納された御戸帳があり、大江町指定文化財となり、現在は歴史民俗資料館に収蔵・展示されている。御戸帳は本殿の神体の前に掛けられていたもので、特産品である青荢を集落の女性が織って奉納した。
風神雷神像は本殿の神体として安置されており、雨をもたらし風害を防ぐ神として信仰されている。雨乞いは昭和40年頃までなされており、本殿前の広場に雷神をうつし、鏡池の水を汲んで神体に水を掛け、御神酒をあげ大太鼓を打ち、「雷神様、大雨たもれ、雨たもれ」と唱えながら祈る、ということがおこなわれていた。また、台風による風災を鎮めて豊作を祈る風祭りは9月におこなわれていた。
神社の祭神は鳴雷神で、風神雷神の姿として形づくられているが、これは他ではみられない形態である。神社には寛政、享保、文政年間の「雷飛龍大権現」と書かれた幟があるが、明治時代のものでは「鳴雷大神祝祭」となっている。このことから、江戸時代までは雷飛龍大権現なるものを本尊としていたが、明治初年の神仏分離によって鳴雷神を祭神とするようになったと考えられる。ここで問題になるのが、江戸時代までは雷飛龍大権現として風神雷神像を祀っていたのか、それとも雷飛龍大権現は風神雷神像とは別の像であったかである。神社には山門がありながら現在その中に仁王像や随身像はないため、風神雷神像は本来ここに安置されていたが、江戸時代までの本尊が明治初年になくなったために本殿の祭神とされるようになったという可能性はあろう。江戸時代の中の畑地区には熊野社があったとされる資料があり、これが雷神社の前身であるのならば、江戸時代までの本尊である雷飛龍大権現は、熊野信仰に関わる像であったと考えることができよう。
山形ビエンナーレ2018「現代山形考 〜修復は可能か?〜」において風神雷神像を人々に必要なものとして新たに価値づけるための調査と、作品の制作が行われた。当時、東北芸術工科大学保存修復センターの研究員であった大山龍顕は、お像からインスピレーションを受け、光背画として「雷電光背、竜巻光背」を制作し展覧会冒頭のスペースで発表した。
中の畑雷神社(撮影:草彅裕)
中の畑雷神社 風神像(撮影:草彅裕)
中の畑雷神社 雷神像(撮影:草彅裕)
08-2-a 大山龍顕《雷電光背、竜巻光背》(撮影:三浦晴子)
Flying Museum
移動式修復センター
文化財の訪問医療:緩和ケア:リハビリが可能な未来の為に。
この物語は雷神社の風神・雷神との出会いから始まった。朽ち果てた鳥居。孤独に佇む御堂。私たちは、崩れた階段を跨ぎ、堂内への進入を試みた。四方の壁の隙間からは陽の光がかぼそく漏れている。恐るおそる一歩を踏み込むと、畳の感触が肉のように柔らかい。御堂の中は懐中電灯の明かりだけが頼りだった。光に照らされて全貌が露わになった雷神の顔に、何かができている ─蜂の巣だ。私にはそれがまるで腫瘍のように見えていた。
文化財の終わりとはどういう状況を指すのだろう。文化財は人が居なければ存在しない。全て人が造った構造だ。その責任の所在はどこか。続けるのか、終わらせるのか。
前回の山形ビエンナーレ2018で展示した「廃仏毀釈」(修復作業を公開し、来場者とのディスカッションを展開するインスタレーション。安楽死という比喩を用い、文化財の終わりがあるのか問題提起している)。鑑賞者の回答は大きく3つに分かれた。ある人はこれをカタストロフィと捉えた。ある人は自然淘汰を良しとした。ある人は恒久保存を望んだ。
前提として、文化財における問題の、社会レベルでの根本的な正解はないと私は考えている。とはいえ一応は、当事者内(物理的な意味でその文化財を管理している者、役所の担当者、修復を施す者などがこれに当たる。勿論、実際の現場ではもっと様々な“関係者”が現れるがここでは省略しよう)で了承できる範囲で収めることはできる。
しかし、問題を当事者の中だけで終わらせず、言うなれば内側に溜まった膿のようなものを外側へ発信し、内と外とで共有・活用・消費しなければ、問題云々どころか文化財の存在そのもの を忘れられてしまうだろう。内と外を移動して循環させるのが、問題へ取り組む方法として健康的な手段ではないか。しかし、そもそも文化財にとっては移動そのものが困難なのだ。それは何故か。文化財には、信仰、歴史、制度、物理的要因、資金などの複合的な絡まりによる制限があり、フットワークが軽くないことが挙げられる。
例えば風神・雷神はその土地の願い(豊作など)にあわせ信仰された歴史がある。しかし、時代の変化と共に人々が土地を離れ、信仰そのものが必要とされなくなってしまった。人が居なければ維持管理や資金面の確保が困難になる。その対策として、本来の信仰は失われたとしても、資料館や美術館においては、民族資料や美術品的鑑賞価値が存在することに注目したい。権利や運営構造の異なる環境に移動させることで、延命処置が可能になるのだ。但し、美術館も寺院も文化の発信基地としての共通点はあるが、文化財の存在理由としては非対称性が存在することに留意する必要がある。
それは、修復方針にも関係する。国際標準は現状維持修復だが、仏像においては、意見が分かれることが多い。一方は過去の修正を除去し、手先など欠損していれば復元根拠を元に当初の姿に復元する処置、もう一方は過去の修正を含めて歴史を尊重し、現状維持を優先する処置。これらの決定において重要なのが、礼拝対象であるかどうかだ。その背景は、近代の美術と仏教がクロスオーバーした歴史に由来する。ここでは詳しい歴史は省略するが、始めは上流階級のみで信仰された仏教が、徐々に大衆にも波及し、神仏習合〜廃仏毀釈と時代に翻弄されて行く。仏教が苦境に陥り、美術の中心が仏教美術から工芸分野に移行していった。また、大衆の中でカルチャーが多様化しメインとサブが合流していった背景がある。
現代における仏像は、カルチャーの多様化に伴い扱われ方が変化していった。仏教の文脈とは 別に、仏像の造形的美観が様々に派生し、キャラクター文化の文脈とも接続することで、サブカルチャー的振る舞いも可能になった。中央でメインカルチャーとしての明確なヒエラルキーが存在する仏像は(例えば運慶作の仏像など)、メインとサブを行き来し、確固たる存在価値を獲得している。社会での認知レベルも高く、厳重に管理されており、失われる可能性は低い。この背景が一般的に普及している価値観として機能しているため、有名か無名かという視点で判断される傾向にある。その為、知名度で不利な場合の多い地方の文化財が、中央のヒエラルキーに適応することは困難である。従って、地方文化財の対策としては別の方法を開発しなければ対応が難しいのではないだろうか。
では、地方の対策について考察を述べる。私は、文化財に対する「モチベーション」をどう発生させるかが重要だと考えている。中央のモチベーションは外発的動機付け(註1)に強く影響しているが、地方にとっては豊富な報酬や、管理する人材を多く確保することは難しく、個々の自発性に伴う内発的動機付け(註1)に注力するのが良いだろう。
その為、対象が如何に貴重で、重要なのかを訴える(外発的)のではなく、文化財の背景にある物語を重視し、内面の感情に働きかける(内発的)方法を選択するのが有効である。風神・雷神を例に述べていく。現在安置されている大江町歴史民俗資料館に、搬出作業時に伺った話で、小学生が来館した際に、風神・雷神に何も言わずとも手を合わせる生徒が居たという。一般的に宗教的対象への配慮は、信仰心の有無とは別に継承されている側面もある。それを多角的に捉え、やや強引ではあるが「礼拝すること=物事を大切に想う」という形に捉え直した場合に、内発的動機の萌芽が見えてくるのではないか。以上の点を踏まえ、風神・雷神はこれまでの活動(物語)から、内面的な接続装置としての可能性が示唆される。
また、社会全体の共通課題として、環境変化による自然災害の増加が問題になっている。災害に向き合う方法として、実践的に防災に取り組む事と同時に、精神面への準備が重要である。それには宗教的な自然を敬う意識を再設定(天罰などの外発的な意識ではなく、自発的なコミュニティの形成。また、現在ある地域が縮小傾向にある場合に、近隣地域との統合など)することが有効である。
今回の移動式修復センターの試みには、既存の方法論(円環)から外に行くことが設定されている。前回の「現代山形考」展で回廊状に展開した構造から、今回は(コロナ禍という想定外な理由が原因ではあるが)オンライン開催になり、図らずも円環の外へ出ることになった。より大きな循環へ、場の移動(訪問医療):調査(緩和ケア):活用(リハビリ)の実験を試みる。
井戸博章(彫刻家、修復師)
註1)心理学用語:外発的動機づけは報酬や罰則といった外部に起因した行動を表す。内発的動機付けは、個人の興味、感心、関与そのものに起因した行動を表す。
倒壊した中の畑雷神社の鳥居
中の畑雷神社本殿に安置されていた風神像
08-2-b 井戸博章《廃仏毀釈》(撮影:三浦晴子)
Flying Museum 移動式修復センター
制作プロセス
本作品は移動可能な修復所であり、地域の宝を守る博物館であるという意味を込めて「Flying Museum 移動式修復センター」と名付けた。グランドデザインを三瀬夏之介が描き、施工を大工の荒達宏が手がけ、修復家の井戸博章がここで実際の修復を行い、今後はキュレーター宮本晶朗の研究成果がhalken LLPのデザインワークによって納まる予定だ。
かつぎ棒は、雷神社のある大江町の西山杉を切り出したもので、外側を埋め尽くす絵画は、三瀬の2013年作「日本の絵 ─沈める寺─」を切り取り、貼り付けられ再生産された。
Flying Museum 移動式修復センター アイデアスケッチ
01-2-c 三瀬夏之介《日本の絵 ─沈める寺─》
切り取られた《日本の絵 ─沈める寺─》
01-2-d1 現代風神雷神考《Flying Museum 移動式修復センター》(撮影:草彅裕)
01-2-d2 現代風神雷神考《Flying Museum 移動式修復センター》(撮影:草彅裕)
01-2-d3 現代風神雷神考《Flying Museum 移動式修復センター》(撮影:草彅裕)
厨子(不可逆・仮設・容器)
風神雷神の為の厨子である。風神雷神を奉っていた雷神社は朽ち果て、倒壊する恐れがある。前回の山形ビエンナーレ2018以降、風神雷神はこの雷神社を離れ、保管されることになった。その風神雷神の為の厨子を制作した。
現在、広い意味での「つくる」ということと、生きることの関りが問われていると感じている。様々な科学技術もそうであるように、人は新しい技術で物をつくり、その生活様式や人としての能力を変化させ続けている。私にとっては、現代山形考・風神雷神に関わるということも、そのような不可逆的な歴史の時間軸に立ち入り、制作するということだ。
雷神社は二間四方・寄棟平入りとなっており、向拝に小さな縋破風が付く形式となっている。詳しい調査は伴わない個人的な印象だが、外観から見る限りはどこにでもある地域の社だ。あらゆる淘汰の末にかろうじて延命処置を続けてきた建物特有の佇まいがある。各所に応急対処の補修があり、屋根は極めて貧相で、軒は雪害を考慮したのだろうか短く、躯体構成との整合性もない。濡れ縁は半分以上が朽ちている。いつ、誰が、どのように補修 修繕し維持してきたのかも判別不能だが、この建物の維持管理に掛けられてきた様々なコストが大きなものではないことが見て取れる。本流の建築史的規範から見れば記述するに足らない建物だ。淘汰され失われて然る建物だ。このような建物は雷神社だけでなく、人の生活圏の中に数多存在している。
厨子とは簡単に言えば神殿内神殿のようなもので、箱を意味する。制作にあたり、大工という視点に立ち、雷神社を見なおしてみるといくつかの特徴的なこと があった。天井化粧梁の不自然な掛け方や、正面に向かってに中央にある柱とそれによって二分された須弥壇。御戶帳。須弥壇に至っては取ってつけたように増設したとしか思えない つくりとなっていた。そもそも風神雷神の為の社だったのだろうか。
この風神雷神の為の厨子は、雷神社の記憶を抽出し、展示されることを考慮しながら、現時点の風神雷神と対応する容器として制作を進めた。それはどことなく⻑床のような形式をもったものになった。
荒達宏(大工)
厨子(不可逆・仮設・容器) アイデアスケッチ
01-2-e 現代風神雷神考《厨子(不可逆・仮設・容器)》(撮影:草彅裕)
現代風神雷神考(Gendai Fujin-Raijin Ko)
山形ビエンナーレ2018 企画展「現代山形考〜修復は可能か?〜」のコアメンバーであるキュレーター・宮本晶朗、美術家・三瀬夏之介、保存修復家・井戸博章、大工・荒達宏、クリエイティブデュオ・halken LLPにて2018年12月に結成されたコレクティブ。山形県大江町の廃村に残された風神雷神像をめぐり、限界集落における文化財の取り扱いの問題や、災害の続く現代における信仰のあり方などをアートを手法に考えるプロジェクトを続ける。
荒達宏(Tatsuhiro Ara)
1988年生まれ。大工。東北芸術工科大学建築・環境デザイン学科卒業。社寺専門の工務店に大工として弟子入りし、各地の現場を巡りながら、伝統工法、技術を学ぶ。その後、家具制作所でのアルバイトなどを経て2017年に独立。住宅や店舗の改修、展示什器などのデザイン、施工を行う。2020年4月から山形県大江町に住まいを移す。
井戸博章(Hiroaki Ido)
1983年生まれ。彫刻家、修復師。東京芸術大学大学院文化財保存修復彫刻修了。仏像の保存修復及び、現代アート作品の制作、保存修復について研究している。現職、東北芸術工科大学文化財保存修復研究センター研究員。
halken LLP
山形出身の画家・スガノサカエ(1947-2016)のマネジメントをきっかけに、2012年に結成された二人組のチーム。展覧会のキュレーションや構成・デザイン、アーティストブックの企画・制作・出版、アーティストマネジメントなど、幅広く活動を展開している。