船着観音堂について
寒河江市西根、旧町名の君田町に船着観音堂はある。船着観音堂の由来は次のような伝説が伝わる。藻が湖があった頃、西根、東根に船着き場があり、ここはケヤキの大木に船をつないだ船着き場だった。室町時代、君田町付近の領主だった大江孫九郎元春は観音信仰に厚い人で、大木が風に吹かれる音が読経に聞こえたため、没すると大木の傍らに埋葬された。後年ここは君田壇と称されて、寛文年間(1661~73)に観音堂が建てられ、大木の一部から観音像を造り本尊として安置した。以来、船着観音と呼ばれるようになった。
船着観音堂がある場所は周辺から1.5~2mほどの高所になっている。ここから現在の最上川までは東方に約3.5kmと、見渡す範囲に水辺はなく、船着き場とはとても想像できないような立地である。堂内には、観音像としては2体が安置されている。須弥壇中央に本尊の木造千手観音菩薩坐像、向かって左側に木造十一面観音菩薩立像である。千手観音菩薩坐像には背面に「正徳五年乙未十月吉/本郷七日町住/浄天禅人捐財彫刻/千手大悲尊永鎮君田町/大樹観音□」と墨書があり、正徳5年(1715)に近隣の本郷七日町の住人である浄天禅人が資金を出して千手観音菩薩を造らせ、君田町の大樹観音堂に安置したことがわかる。十一面観音菩薩立像のほうは墨書などはないが、明治時代以降の制作と考えられる。
前述の船着観音堂の伝説については、主だった内容は貞享3年(1686)に書かれた「羽州村山郡寒河江庄君田町観音堂縁起」、通称「船着観音縁起」にある。そこにあるのは大江孫九郎元春、ケヤキの大木、観音堂の建設、大木から造られた観音像などについてで、藻が湖や船着き場については一切触れられていない。つまり、現在知られる船着観音の伝説は、史実に沿った内容であろう縁起の内容に、後世になって藻が湖伝説が組み込まれた構造であろうことが推察される。「船着観音」という名称もいつ頃からあるのかは不明だが、貞享3年の縁起には「君田町観音堂」とあり、また正徳5年の千手観音菩薩坐像の墨書には「大樹観音」とあるため、少なくともこの時期までには船着観音という名称は使われていなかった可能性は高いだろう。この不可解な名称が先にあって藻が湖伝説と結びついたのか、またその逆なのかは定かでない。
船着観音堂(撮影:草彅裕)
木造千手観音菩薩坐像(撮影:草彅裕)
木造十一面観音菩薩立像(撮影:草彅裕)