現代山形考〜藻が湖伝説〜


〇五   祈りの絵馬と山寺と

最終更新日:二〇二〇年九月一一日

最終更新日:2020年9月11日


《最上川(本合海)》と
その修復について

山形市山寺の旧山寺ホテルに展示されている《最上川(本合海)》は、明治44年(1911)に開催された「山寺油絵展覽会」のために、高橋源吉(1858-1913)によって制作された作品の一つである。山寺油絵展覧会のために制作された作品は、山寺村村長の伊澤栄次が対象となる場所を指定して源吉に依頼したもので、山寺の観光PRという目的から、山寺とその周辺の風景が選ばれている。にもかかわらず、《最上川(本合海)》は山寺から離れた新庄市本合海の最上川が描かれている。これには伊澤のなんらかの意図があるのは間違いない。伊澤には円仁研究家という側面もあるため、山寺油絵展覧会のために描かれた風景の多くは立石寺を開山した円仁ゆかりの場所が選定されており、伊澤は円仁の顕彰をしていると考えられている。伊澤が後年記した『慈覚大師と東北文化』では、円仁が開削工事をしたという藻が湖伝説について「藻が湖と長井湖の疎水」の項で取り上げており、その中で明治41年(1908)に発行された『山形県名勝誌』の下記を引用している。

最上川筋御殿(一説本合海附近)の岩石を穿ち水を疎したれば、沮洳不毛の地一変して沃田とはなりぬ。里人其の徳を恩とし新米を納めて初穂と云ひ、十一月之にて餅を製し大師の霊を供養すと云ふ。

ここで岩石を穿った所として本合海が挙げられていることから、伊澤にとって本合海は、湖の水を抜いて広大な土地を作るために円仁が開削工事をした場所で、そのことを顕彰するために本合海の風景の制作を依頼したものと考えられる。

《最上川(本合海)》は、山寺油絵展覧会後に旧山寺ホテルに引き取られたと考えられ、その後は2階大広間に展示され現在に至っている。近年の東北芸術工科大学文化財保存修復研究センターの調査によって源吉の作品と判明したが、制作後100年以上が経過して多くの損傷が生じていた。そのため、作品を管理する山形歴史たてもの研究会から依頼を受け、保存修復センターが平成29年(2017)から令和元年(2019)に修復をおこなった。なお修復費用については、山形歴史たてもの研究会と株式会社文化財マネージメントによってクラウドファンディングが実施され、その結果100名以上の支援があり目標金額が調達された。


05-4-a  《最上川(本合海)》 修復前の状態

全ての釘を抜いた後、木枠から絵を取り外した

画面右下に生じていた破れは麻糸を膠水で接着して補修した

可動式の仮枠に絵を張り込んで、画布の変形を修正した

綿棒を濾過水で湿らせ、画面の上をころがすようにして汚れを吸着させた(左側がクリーニング前、右側が後)

絵具が剥離していた箇所は、充填材を筆で入れ整形した後、周りの色に合わせて水彩絵具で色を補った

05-4-a  《最上川(本合海)》 修復後の状態


髙橋源吉(Genkichi Takahashi)

1858年、洋画家・高橋由一の長男として江戸の佐野藩邸内で生まれる。1877年、工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージから日本最先端の洋画教育を受ける。1878年、フォンタネージの帰国に伴い、退学。その後は由一の制作補助をおこない、1885年に出版された由一作『三島県令道路改修記念画帖』の石版画制作を担当した。天絵学舎や明治美術学校では指導をおこない、『高橋由一履歴』を編集する。1889年、山本芳翠、浅井忠、原田直次郎らと明治美術会を結成し、明治前半の洋画界の中心で活躍。1901年の明治美術会解散後は、絵を描いて売りながら各地を放浪する生活を送る。由一と縁のある山形にも二度訪問する。1911年、山寺村村長・伊澤栄次の企画によって個展「山寺油絵展覧会」が立石寺根本中堂にて開催され、《最上川(本合海)》《天華岩》など山寺や最上川の風景を描いた作品を中心に展示された。1913年、石巻にて死去。


作品データ


05-4-a  《最上川(本合海)》