山寺油絵展覧会について
山寺村はかつて、二口街道の物流で繁栄していた。しかし明治時代前期、県令・三島通庸の主導によって開通した関山新道や栗子山新道にその役割を取って代わられたことにより、衰退を余儀なくされてしまった。それを危惧した山寺村や東村山郡、山形県の請願により、明治41年(1908)、東宮(のちの大正天皇)の行啓が実現する。それをきっかけに山寺は全国にその名を知られ、近代的な観光地へと変化していく。
同44年(1911)、さらなる観光振興を図るため、当時の山寺村村長・伊澤栄次によって「山寺油絵展覧会」が企画された。それは、山寺の名所や最上川などの風景画を、山寺の中心である立石寺根本中堂に展示するというものであった。油絵の制作は、洋画家・高橋源吉(1858-1913)に依頼された。
源吉は、「日本で最初の本格的洋画家」として知られる高橋由一(1828-1894)の息子である。工部美術学校のアントニオ・フォンタネージからは、当時の日本最先端の洋画教育を受けた。その後は由一の制作補助をおこない、由一が三島通庸の依頼で制作した『三島県令道路改修記念画帖』の石版画制作も担当した。また、明治美術会の創立メンバーであり、明治時代前半の洋画界の中心で活躍した。しかし、晩年には絵を描いて売りながら各地を放浪する生活を送る。その中で由一と縁のある山形にも二度訪れており、同展覧会の出展作が制作された。
山寺油絵展覧会は、紅葉の行楽シーズンに合わせて開催された。その目的や手法は、まさに明治時代の地域アートと言える。また展示された作品の中でも、《天華岩》、《山寺全景》、《立谷川 対面石》、《最上川(本合海)》、《とら》などは現存し、山寺や隣接する天童市内のドライブインや小学校など地域の人々にとって身近な場所に展示されている。
05-3-a 天童市王将タワーに展示されている《山寺全景》(撮影:三浦晴子)
05-3-b 天童市王将タワーに展示されている《立谷川 対面石》(撮影:三浦晴子)
05-3-c 天童市荒谷小学校に展示されている《とら》(撮影:三浦晴子)