現代山形考〜藻が湖伝説〜


〇八   見果てぬ夢、ありえたかもしれない世界

最終更新日:二〇二〇年九月一一日

最終更新日:2020年9月11日


オリンピックと
明治神宮外苑と
山形人について

東京オリンピック2020のメイン会場として全面改築された国立競技場は、東京・青山の明治神宮外苑に位置している。

今から100年前、明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后の崩御に伴い造営された。人工の森に社殿や宝物殿を配する代々木の内苑、国立競技場を含めた運動施設や聖徳記念絵画館などを幾何学的に整備した青山の外苑、及びその二つを結ぶ参道で構成されている。関東大震災をまたいで整備された外苑と参道は、その後の都市計画とも密接に関係し、現在の代々木、青山、表参道周辺地域の原型ともなった。

そしてその造営において、3人の山形人——米沢市出身の建築家・伊東忠太、白鷹町出身の建築構造学者・佐野利器、新庄市出身の造園家・折下吉延が、重要な役割を担っていた。

明治45年(1912)9月3日、明治天皇の葬儀が青山練兵場にて執り行われた。同年には明治天皇を祀る神社創建の計画が、渋沢栄一や阪谷芳郎東京市長らを中心に持ち上がり、その造営地として代々木御料地と青山練兵場が選定された。翌年、内務省内に神社奉祀調査会が設置され、近代日本の象徴を担う神社とはどうあるべきか、議論が尽くされた。その中心にいたのは、建築家であり東洋建築史の第一人者でもある伊東忠太(1867-1954)だった。

そもそも代々木御料地と青山練兵場は、明治50年に日本大博覧会会場となる構想があった。伊東は、その設計競技審査委員の一人でもあった。伊東が称賛し当選した吉武東里の設計案は、代々木会場を「東洋風」「田舎風」「自然的」に、青山会場を「西洋風」「都会的」「人工的」とするものだった。博覧会が実現しなかったその場所で、明治神宮はその案を引き継ぐかたちでの基本設計がなされた。つまり、伝統と革新、東洋的と西洋的といった対極的なコンセプトを内苑と外苑それぞれに分担させることで、明治天皇を祀るに相応しい場を構築させたのである。そしてまずは大正9年(1920)、伊東が中心となって設計した木造の伝統的な社殿を配した、広大な人工林の内苑が竣工した。

外苑の計画案策定、工事の監督指揮においては、佐野利器(1880-1956)と折下吉延(1881-1960)の役割も注目される。建築構造学者で世界最初の耐震構造理論を確立した佐野は、宝物殿及び聖徳絵画館の設計競技の審査員として、「国土と耐久的建築の調和」を最重要視し、鉄筋コンクリートによる耐火耐震の実現を求めた。一方、造園家の折下は、欧州視察で都市計画における公園事業の重要性を学び、理想的な公園配置計画を実施しようとしていた。

外苑造営工事が進められていた大正12年(1923)9月1日、大震災が関東地方を襲った。東京市内は三日間に渡り焼き尽くされ、市の人工の7割以上の157万人が公園や広場への避難を余儀なくされた。翌日には罹災者用バラック設置のための外苑使用許可が求められ、佐野は最大の公設バラック村の計画と、震災後の都市計画にも尽力していく。折下もまた、都市の保健と保安のために近代的な公園計画を推し進め、その第一に外苑銀杏並木の実施計画に取り組んでいった。

大正15年(1926)、ついに明治神宮外苑が完成する。葬場殿趾には楠が植えられ、コンクリート造りの西洋的な聖徳絵画館を中心に銀杏並木が整備され、野球場や相撲場、国立競技場の前身となる明治神宮外苑競技場が作られた。外苑はその後、第二次世界大戦中の空襲による被災を経て、昭和39年(1964)東京オリンピックの開催、そして現在へと繋がっていく。

東京オリンピック2020の中心的な場である(であるはずだった)国立競技場は、日本の近代化の歴史の中で、広く国民に開かれた場として設定された空間に位置しているのである。


外苑竣功当時(大正15年)の明治神宮内苑外苑および参道図(明治神宮所蔵)


現在の明治神宮および周辺(国土地理院ウェブサイトの空中写真をもとに編集)


創建時(大正9年)の明治神宮社殿(出展:『明治神宮造営誌』)


創建時(大正15年)の聖徳記念絵画館(出展:『明治神宮外苑志』)


現在の明治神宮外苑銀杏並木(藤井正弘撮影)


作品データ


なし