直す/治す ということ
「この像を直すことはできるのだろうか?」と胸に問いかけてみる。
それは保存修復家の友人に案内され、山形のとある中山間地域を訪れた時のことでした。彼が調査の最中に出会ったという奇妙な風神雷神の画像を見せてくれた時には胸が躍りました。関西で生まれ育った私にとっては見たことのない素朴でぎこちない造作、しかしそれでいてなぜかこちらに強く迫ってくる像に圧倒されたのです。大学から小一時間ほど車を走らせたそこはすでに廃村となっており、神社は管理されることもなく鳥居は倒れ、屋根は崩れ落ちている。残雪の湿気とカビの匂いが充満する暗いお堂の奥底で風神雷神は私を待っていました。そしてそれは、思っていたよりもか弱く小さな小さなものでした。
この像はこれからどこにあるべきなのでしょうか?
丁寧に修復して博物館に納める。しかし、そこは本当の意味ではこの像のあるべき場所ではありません。しかし、この像を待っている者はもういません。このままでは来年の今頃には豪雪に押し潰され、いつしか土に還るでしょう。それはそれで美しい結末か。
機能を失ってしまった神々の行く末を案じる内に、最初の問いはいつしか「地域の修復は可能だろうか?」という問いへと、「直す/治す」という抽象的な問いへと変わっていきました。
今、山形を考えることは、決してここだけの問題ではありません。それはもう壊れ失くしてしまったことに気付くということであり、それをどのように回復するのかという辺境と呼ばれる場所すべての問題でもあります。「現代山形考〜藻が湖伝説〜」は、過去の遺物と現在の問題をつなげる交差点として作り上げました。時空を超えた出会いのものがたりを読み解いてほしいと思います。